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「それぞれの人が自分らしく生きることのできる世界を作るため、私は“無色”になる」アートプロデューサー・栗栖良依さん

#グッドバイブスウーマン #生き方にセンスがある

「#グッドバイブスウーマン」第四回にご登場いただくのは、25年以上にわたり、異分野、異文化の人やコミュニティをつなぐことで新たな価値を生み、対話や協働のプロセスを踏みながら社会変革に挑む、栗栖良依さんです。

2024.06.10公開

©427FOTO


ある日右膝に痛みを感じて、複数の病院を受診するも改善せず、大学病院で撮ったレントゲン写真がたまたま整形外科の腫瘍専門医の目に止まり、その翌日には骨軟部の癌であると診断されます。「生きる」と決めて、治療をするための入院生活に入ったとき、栗栖さんは32歳でした。

オリンピックに携わるという夢や仕事も手放し、人生をリセットすることを決意。右足の骨と筋肉と関節の大部分を切除する三度の手術と8クールの抗がん剤を含む治療を経て退院後、障がい者手帳を取得して社会復帰を目指しました。リハビリなどに励み、新しい体でできる、新しい生活スタイルと働き方を模索したそう。

原稿では数行ですが、それらを経た栗栖さんの労苦は想像に堪えません。取材にあたり、治療や経たことについて話す栗栖さんは、たとえば新しいプロジェクトについて淡々と説明するかのようで、とんでもなく強い人なのだと思っていました。しかし、今回お話するなかでみえてきたのは意外な苦悩や弱さであり、不自由なのは体ではないということでした。

@kris1480mm

自分は何者なのか。悟りの境地に至っても再びやってきたモノ

―現在の活動を教えてください。

栗栖:「アートの力で国や分野をこえた共創をうみだし、多様性と調和のある世界をめざす」、認定NPO法人「SLOW LABEL(スローレーベル)」で芸術監督をしています。直近のものでは、ベートーヴェンの「喜びの歌(第九)」を題材とし、ひと公演ごとに多彩な個性を持つプレイヤーとの出会いと別れを繰り返しながら、SDGs達成目標である2030年までの約6年をかけて、未だかつて誰も見たことも聞いたこともない「喜びの歌」を奏でることにチャレンジするという参画型音楽プロジェクト「Earth ∞ Pieces(アース・ピースィーズ)」を企画発案しました。音楽家の蓮沼執太さんに音楽監督に就任していただき、3月16日に第一弾として「Earth ∞ Pieces vol.1 ワールドプレミア」を開催しました。子育て、介護、仕事。事情はさまざまですが、音楽を楽しむ機会を失った方、楽器が弾けない方、楽譜が読めない10~60代までのプレイヤーや演奏のプロたちが全国から28名集結し、顔合わせから披露までたった1日で完結するからこそ参加できる人たちが共に音を奏でた、そのプロジェクトをプロデュースしました。


―では、肩書きは…。

栗栖:肩書きでいうと、スローレーベルの芸術監督。またはアートプロデューサーやアーティストでしょうか。ただ、それらは表記を求められた場合での答えで、肩書きが存在しないことや既存のジャンルに当てはまらないことをしているので、肩書きなどのひとつの単語で自分の活動を言い表すことが、ずっとできないでいるんです。クリエイティブやアーティスティック・ディレクターなど、プロジェクトごとに役割やしている内容が変わるためだけでなく、自分が何者なのか、をずっと模索しているようなところがあります。何かひとつの職業で勝負しているわけではなく、ニュートラルで何色にも染まらないというのが私の特徴です。みなさんの多くは、特定のジャンルや専門分野、肩書きをお持ちだと思いますが、私はそのいずれにもはまらずに無色透明な存在で、異なる分野の人たちをつなげていく。それが私の役割であると認識しています。

―その役割を認識された経緯にはどのようなものがあったのですか

栗栖:高校生のころから、オリンピックの開会式に携わるという夢があり、それだけにフォーカスして、それをやるために必要なスキルを身につけて、いろいろなキャリアを構築してきました。いわゆる「オリンピックの開会式」や「開会式の演出」と言っても、とてもスケールが大きく、舞台上に10人いて何かを演じるというものと、あのような8万人を擁するスタジアムのフィールドで三千人がパフォーマンスするというものとでは、そもそも演出の方法が変わってきますよね。私はその後者のほうを追求してきましたから、常に頭にあるのは、その規模感なんです。しかも演者は、プロの役者だけではなく市民もいます。素人の方を起用して、いかにおもしろいショーに仕上げるか、という演出に努めてきました。美術の大学でアートマネージメントを学んだのですが、社会に出たあと、アートの分野でやれば、「君のやっていることはアートではない」と言われ、演劇の分野にいけば、「君のしていることは演劇ではない」と言われて。どの業界からも、「君のやっていることは違う」と言われ続けました。特定の業界で評価を得ること、そのジャンルでキャリアを築くこと。たとえばコンペティションで賞を獲得するにしても、そのコンペに自分の表現しようとしていることがマッチして初めて、賞を狙えるわけですよね。作っているものが映像なら、映像作家として映像を出品する、というように。そもそも自分の表現が、特定のジャンルや評価指標に当てはまらないのだから、誰も良し悪しを判定できないし、誰からもどこからも評価されないわけなのです。

―前人未踏の領域を進んでいらっしゃるんですね。

栗栖:そうなのかもしれません。「Earth ∞ Pieces」でもそうでした。誰も見たことがない。誰もやったことがない。どんなプロジェクトでもそうですが、前例のないアートや作品をつくろうとしているので、企画を立案する時点で、誰かに理解してもらうのがとても難しいです。過去の作品の焼き増しや、誰かがすでに作ったものを表面だけ上書きして発表する意図は、これまでにもこれからもないですし、ジャンル、仕組み、概念そのものを新しくするような作品を創造するので、それらを自分なりに言葉にして説明しなければならない困難というのはあります。企画書を送らないとなりませんしね。けれど、言語化できたとしても、おそらくすべてを理解できる方というのはいないだろうとも思っています。部分的な共感はあったとしても。あるいは、私のこれまでの活動を知っていて、“栗栖ならおもしろいことをやってくれるに違いない”と賛同してくれるか。そのように過去の実績から私を信じてついてきてくれる人がいるから、いまはまだよいほうですが、20代や以前は大変でしたね。

―パラリンピックを担当したという実績が追加されたインパクトは大きいでしょうか。

栗栖:それはあると思います。10代のころからオリンピックの開会式が夢と公言し、大学や社会で学ぶことや手掛けること、何もかもに対して、「私はオリンピックのためにこれをやっています」と言い続けていたんですね。けれど、当時は東京で五輪が開催されることも決まっていなかったですから、「はぁ、この子は何を言っているんだろう?」とか「この小娘にそんな壮大なことができるはずがない」という反応ばかりでしたね。病気して、復帰して、スローレーベルの活動を始めて、2014年ごろに東京五輪が決定したタイミングで、パラリンピックを手掛けてみたい!と伝え始め、応援してくれる人はたくさんいたけれど、どこまで本気でやり遂げられるかどうかは半信半疑だったと思いますよ。

「栗栖さんの夢、叶うといいですね」とは応援はしてくれる人はたくさんいましたけれど。でも、夢のまた夢、実現させるのは無理な夢、と感じていた人も少なくなかったと思います。「そんなに五輪が夢と言い続けて、そこまで叶えたいことが叶わなかったらどうするの?」と聞かれたこともあります。でも、たとえ夢が叶わなかったとしても、してきたこと、向き合ってきたことに後悔はなかったでしょう。それのみを考えてきたわけですが、勉強したことや一生懸命努力してきたすべてが無駄になるわけではないからです。私の性格なら、「そうか、実現しなかったけれど、この経験がきっとほかのことに活きてくるんだろうな」と思ったでしょうね。ただ、私に賭けてついてきてくれる人たちがいるから、その人たちに申し訳ないな、と感じただろうとは思いますが。

―10代のころからの夢をパラリンピックというかたちで叶えたわけですね。

栗栖:野村萬斎さんをはじめオリジナルの演出チームの一員だったので、実際にはオリンピックも担当しましたから、公言していた夢は叶ったことになりますね。実は、2012年のロンドン五輪で、パラリンピックがおもしろい!と感銘を受けていたんです。だから、私の中では、病気のことがあったからパラリンピックを目指したわけではなく、2012年の夏以降は「パラリンピックをやってみたい!」に移行していたんです。スローレーベルの活動を通じて、障がいのある人たちとアートを作っていると、自分でも思いつかなかったような発想や視点のアイデアが次々と出てくるワクワクの度合いがとても大きかったという意味で、とんでもなく楽しいものがパラリンピックでできそう!と思ったんです。

“オリンピックが無理そうで、パラリンピックならできそう”というマインドではないんですよね。組織委員会が当初構成したチームも、オリ・パラで分かれていたわけではないですし。ただ、ご存知の方もいるかと思いますが、政治的にも、とにかく本当にいろいろなことが起きて。オリジナルチームは名目上、解散になりましたが、実際のところは私以外にパラリンピックの開会式をつくることができる人はいなかったので、私だけ残って最後までやり遂げるかたちになりました。



―そして2021年に東京2020が開催されたわけですね。

栗栖:10代のころからの夢を実現できたという感じはありましたね。終わった後は、燃え尽き症候群になりました。16歳から公言した夢を、病気を経て悟りの境地に達して、叶えた。そして、この数年は何をやったらいいのかが分からずにいました。あのレベルまで到達してしまったから、私の中では何があるのか、と思う一方、周りの人からは、「じゃあ次のことやってください、次の案を出してください、次は何をしてくれますか」と問われるようになって。何かやりましょうよ、とお声がけいただくものの、作りたい作品が出てこない。そこで出てきたのが、2030年というキーイヤーでした。

―札幌冬季五輪ですか。

栗栖:ちょうど2012年のロンドン大会で、目標にするパラリンピックに目を向け始めたあのころのタイムフレームと重なるような印象も受けたので、2030年の札幌に思いはありました。残念ながら招致から撤退となったので、札幌大会を再び手掛けることはかなわないですが、東京2020で唯一、心残りがあるとすれば、それはオリンピック。日本にも素晴らしいアーティストや演者の方たちがいるのに、いまいちその人たちが輝ける場にはできなかったんじゃないか、と。手が届く距離にいたのに、変えることができなかったという想いがあります。

私は、2016年のリオ大会にも携わっているので、単に大会を2つ経験したというだけでなく、開閉会式の一連のプロジェクト全体をまるごと体験している数少ない日本人なんです。だから、2020のパラリンピックで表現できた多様性をパラリンピックで再現するのではなく、オリンピックで表現できてこそ、初めて多様性と調和のある世界へ向けて10年かけて進化できています、と言えると思うんです。2030年、オリンピック。それを新たな目標に据えて「Earth ∞ Pieces」も始めたという経緯があり、その目標はなくなってしまいましたが、2030年をターゲットイヤーとしては残し、現在多様な方たちが活躍しにくい環境であるライブエンターテイメントの世界を変えるための一石を投じる、という目標にシフトしています。

―これからの目標、夢は何でしょうか、が次の質問でした。

栗栖:いまは目標や夢はないです。もちろん、各プロジェクトにおけるビジョンや“目標”はありますよ。2030年までにはこういう社会になっているように目指します、というような。ただ、それらは、私個人の人生での目標や夢とは違います。あえて言えば、私が両親を見送ること、あとは自宅のベランダにサンルームをつくることぐらい。そんなささやかなものが夢でしょうか。

誰しもが人生に悩みをもつ。自分を自由にするためにできるコト

―でも、夢だってささやかでいいのではないですか。特にメディアなどでは、ポジティブで、ブレずに夢に向かって一直線で、大きな使命を全うするために邁進する部分だけに焦点が当てられて取り上げられがちですが、壮大なものしか夢と呼べないわけではない。

栗栖:人には、光と影があるのでしょうね。光があるから影ができ、影があるから光の部分がより輝く、といった。インタビューなどで光の部分を知って、すごいなぁとは思ってもらえても、共感を得にくいということはあるかもしれませんね。


―栗栖さんは、高校では生徒会長でバスケ部のキャプテンで優等生で。病気を克服したときや五輪のプロジェクトなどのエピソードをお聞きしていても、とにかく優秀で、苦悩なく正解を出せる人生を生きているイメージがあります。

栗栖:そこのギャップに、私は常に苦しんでいると思います。世間からみられる栗栖さん像と、自分が思う自分には乖離があるんです。でも同時に、態度を変えているとか、“ビジネス栗栖”を演じているわけではなく、どの自分も無理をしていない等身大の自分ではあるんですよね。私は言いたいことを言い、やりたいことをしているだけなのですが、人の多くは私にそのようなイメージを持つようです。そして、そのイメージはどんどん大きくなっていき、同様にギャップも大きくなっていって、その差が開いていくほどツラいものですね。


―言いたいことを言い、やりたいことをやる、とおっしゃっていましたが、そういった仕事でのアイデアやクリエイティビティの源はどのようなところにあるのですか。

栗栖:おもしろい人ですね。作品だったり行為だったり、アイデアとか考え方とかがおもしろいな!と思うと、その人と作品をつくってみたいと感じます。アートやデザインのクリエイティブ業界の人だけでなく、いろいろなジャンルの、いろいろな人たちと会う機会に恵まれていますから、いろんな人のおもしろいところというデータが私の頭の中に蓄積されていて、あのときのあの人と、また別のあの人をつなげたらこんなことができておもしろいのでは、というふうに思いつくんです。


―ケミストリーですね。

栗栖:まさに、化学反応といった感じです。人と人をつないだり、人と何かをつないで新しいものを生み出したりって、ものすごく体力とエネルギーを要するので、できるだけ無理はしないようにしていますが。おもしろいことを追っかけることだけをしていると、どこまででも広がり、どこまででも散らかすことができてしまうので、収拾をつけて片付けながらしないといけません。整理整頓が苦手なので、やり散らかしで終わらないように、いまはブレーキをかけるようにしています。



―そういった片付いている状況をキープするために、あるいはご自身をよい状態に保つためにしていることはありますか。あるいは気を付けていることなど。

栗栖:でも、もしかしたら、自分をよい状態に保つためにはブレーキをかけないほうがよいのかもしれませんね。自分を抑えているのは、どこかでストレスなのかも。自分の体力を考えて、まわりへの影響や迷惑を鑑みて、極力やらないようにするというのをやめるべきなのかもしれない。面倒をかけてでも、やり散らかしたほうがいいのかもしれないです。

―そうかもしれません。

栗栖:やり散らかしを喜んでくれる人もいるのですが、一方で迷惑を被っている人も実際にいるようなんです。仕事が増える!といった具合に。そういうスタッフたちのことが頭をよぎるんですよね。常に彼らのことを考慮しています。


―リーダーとしての責任感がおありなんですね。個人的に豊かだと感じる、リラックスできるのは、何をされているときですか。

栗栖:ひとりで旅をしたり、海に入ったりしているとき。温泉に入って、美味しいものを食べているときなどですね。病気をした後、体をまるごと水の中に入れたい衝動に駆られて、してみたらすごく気持ちがよいと感じて以来、海や温泉へ行くんです。東京2020が終わったあとは、東京にいなくてはならない理由もなくなったので、宮古島に移住する計画を立てていました。
物件を探したり、ポットキャストの収録も宮古島でおこなったりもしていたんですが、よい物件に出会えず、東京に仕事場として使う部屋を借りた途端、TBSの「ひるおび」に隔週木曜日でコメンテーターとして出演する仕事が決まったので、神様からの“東京にいなさい”というメッセージだったのかもしれません。でも、行きたいときに宮古島には行っています。


―宮古島に移住も考えていらっしゃったんですね。イタリアが第二の故郷というようなことをお聞きしたのですが。

栗栖:デザインの大学院で、ビジネスデザインを学ぶために、イタリア・ミラノに留学しました。オリンピックでの仕事を目指していましたから、社会と芸術をつなぐという、当時でいちばんスケールの大きいアートマネージメントを大学では選んだんです。当時はまだ美術の学校でのアートのジャンルは縦割りで、油絵科、写真科など、いまの芸大の先端芸術のように分野を横断できるものがなかったんですよね。
大学卒業後に仕事をしてお金を貯めて、20代の後半でイタリアへ行きました。同じくオリンピックとそのスケールというのが理由で、ファッションでもインテリアでもインダストリアルでもなく、ビジネスデザインが分野を横断できるものだから選びました。ミラノに住んだのが、初めてひとりで海外に住むという経験でした。住んでいたのは1年ちょっとですが、やはり特別な想いのある場所ですね。


―ミラノってとても美しいところですものね。

栗栖:住んでいたときは、そこまでイタリアのことは好きではありませんでした。ミラノには汚いエリアもたくさんありましたし。けれど、日本に帰国して、あとから考えると素晴らしい経験をしたな、行ってよかったな、と思いました。


―スケールの大きいことを勉強し、スケールの大きなお仕事をこれまでされてきたと思うのですが、栗栖さんにとって仕事、働くこととはどのようなものでしょうか。

栗栖:日常生活と仕事と分けて考えることがないです。境目やオン・オフという区切りはないんですね。好きなことだけをやっていますし、私、基本的にずっと遊んでいたいんです。遊びが好き。子どもなので。遊んでいて楽しいことの延長に仕事があるという感じです。


―では、お金はどのようなものでしょうか。

栗栖:お金は巡るものだと思っているので、気持ちよく使うようにしています。気持ちよく使っていると、気持ちよく戻ってくるんですよね。病気になって以降の考えかもしれませんが、あまりお金のことで悩まないようにはしていますね。もちろんシリアスになって悩もうと思えば、いくらでも心配はできますよ。私の老後って大丈夫かな、って。でも考えすぎてもしょうがないから、気持ちよく使うといった心地よさのほうにフォーカスするようにしています。入院していたときも、「ああ、こんなことにまたこれだけお金がかかってしまう」ではなく、貯金を切り崩しながらも個室代だったり、食べたいものを美味しく食べることだったり、自分が心地よくいるために気持ちよくお金を使うようにしていましたね。


―いまは何に気持ちよくお金を使っていらっしゃいますか。

栗栖:やはり旅でしょうか。


―次の旅先は決まっているのですか。

栗栖:夏にイタリアに行く予定です。8月にまとまった時間ができたので、ヨーロッパに滞在します。日本にいなければならない本番や行事がちょうどないことも珍しく、なかなかないこんなチャンスを見逃せないです。


―なぜイタリアなのですか。

栗栖:燃え尽き症候群になって、過去2年ぐらいは“大殺界な”感じで、実はいまも自分探しをしている最中です。だいぶ見通しは明るくなってきたのですが、抜け切れていないところがあるんですね。イタリアは、やはり私のなかで人生の転換地点になったところ。20代のころにクリエイティブの世界、日本の業界でまったく評価されなかった自分が、イタリアでは自分を受け入れてくれて、認めてもらえたからです。スリにあうなど、海外に住む日常生活での苦労はありましたが、アーティストとしての成功体験がもたらした影響は、とても大きいです。キャリアにおいて考えたいこともあるので、イタリアに戻って原点回帰したいと思っています。


―私もアメリカ在住なので、おっしゃっていることわかります。日本が悪いわけではないのですが、アメリカだとひとりひとりが違うことが当たり前で、衝撃を受けたことがあります。

栗栖:肩書きの話にも近いですが、日本ではどの分野でも型にはまるところからスタートしないと評価されないところがあって、いかにきれいに型にはまっているか、前例や引用が何であるか判定されるようなところがあります。私は、“型にはまらない”というスタイルなのに、人に認めてもらうためには、ハマりたくもないけれど、なんとかしてなんらかの型、既存の型の中から探して選ばなくてはならなかった。従来の型と自分を比べなくてはならなかった。イタリアでは、まず型にはまらないことが評価されました。型からはみ出れば出るほど、それがそれぞれのオリジナリティやクリエイティビティになるという考え方にふれたことは大きいですね。それがスタンダードな気もするのですが、日本には“型の美”のような感覚があるのではないでしょうか。各業界のお作法があり、作法に則らない人ややり方は、始めから評価対象外というか。


―窮屈ですね。

栗栖:窮屈です。ずっと感じてきました。だったら、日本を出たらよいのでしょうね。


―でも、もしかしたら、栗栖さんは日本にいて内側から日本を変える人なのかもしれません。

栗栖:日本でやらなければならないことはあるのでしょうね。外国だとか日本だとかを問わず、実際のところ何らかの窮屈さや苦しさを感じている人は、日本に山ほどいるのではないでしょうか。それを言えずにいたり、内に秘めたままになったりしている人たちが、私の型破りな生き方を知って、私の苦悩や訴えようとすることに共感してくれるのかもしれないです。


―勇気づけられる方はいらっしゃると思います。

栗栖:ただ、その“共感”が、いまの私の課題なのかもしれません。メディアでの露出もそれなりにあり、知ってくださる人は多いはずなのですが、ソーシャルメディアでのフォロワーは多くないんです。個人的にはフォロワーの数が少ないことは気にしないのですが、チームのリーダーとして、矢面に立つポジションとしては、宣伝などに結びつかないのはどうかと思うわけです。


―おっしゃっていたように、前例がないものをつくり、前人未踏の領域を進むならではの悩みだと思いますが、一般人代表として率直に申し上げると、栗栖さんが実際にはどんなことをしているのかがわかりづらいのだと思います。

栗栖:そうだと思います。型にはまらないがゆえに何をやっているのかが伝わりづらいのです。


―今後はどのようにしていくご予定ですか

栗栖:実験を試みる予定です! 自分探しにイタリアに行くタイミングで、ソーシャルメディアや表舞台から姿を消してみるという実験です。私は表に出ることもできるし、裏方を担当することもできる。けれど、どちらのほうが自分に合っているのか、どれくらいのものが他から求められているのか。そういったメディアとの関係性や好き嫌いなどの自分の感覚も含めて、向き合ってみたいので。インタビューの答えがキラキラなものでなくて、ごめんなさい。

自分らしく生きるヒトは美しいから、そのヒトを輝かせるために動く

―とんでもないです。キラキラばかりが人生ではないのと同時に、むしろ悩んだり、苦しんだりすることも含んだ人生が素晴らしいのではないでしょうか。

栗栖:そうですね。その人生の素晴らしさや美しさをみんな、頭ではどこかわかっている。けれど、その実感みたいなものがないから、きっと苦悩するのでしょうね。そういうものも見つけに夏にヨーロッパへ行きますが、見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。私の何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。

―そんな自分を探す栗栖さんの生きる喜びとは。あるいは大切にしているキーワードは何でしょうか。

栗栖:生きる喜びとは…。キーワードは、「なるようになる」です。

―では、理想の自分像とは。

栗栖:常にワクワクする自分でいることでしょうか。いつもワクワクして、遊んでいたい。ただ、それだけ。

―憧れの女性っていらっしゃるんですか。小さいころからのヒーロー、ヒロインなど。

栗栖:そういう意味での憧れの人はいないですね。小さいころから、こういう人になりたいと思ったことはないです。でも、ヨーロッパのビーチなどに行くと、おじいちゃんとおばあちゃんが手をつないで海水浴をしている様子は、私の憧れですね。憧れの女性像や自分というよりは、憧れの未来像という感じですが。

―ポッドキャストでも、海に入るようになってから、海外ではおばあちゃんになっても水着姿になって海水浴していて、それがいいなと感じているとおっしゃっていましたね。

栗栖:年を重ねても水着になりたいという海女さんのようなことではなくて、大人や年をとってから水着姿を晒すのははしたないとか、年をとってからも公共の場で手をつなぐなんて恥ずかしい、と言われることもあるじゃないですか。年齢、世間の目や考え。それらを超越して、おじいちゃんと友達のように手をつないで、自分のしたい姿で海を楽しむのはすてきだな、と。

―そういう女性は美しいと感じますか? あるいは美しい人とはどのような人でしょうか。

栗栖:心というか内面のコンディションが外見に出るとは思っているのですが、ただそれだと主観的ですから、何をもってして美しいというのか、ですよね…。でも、やっぱり、自分らしく生きている人でしょうか。自分の人生を愛せている人は美しいと思います。

―ご病気から実に14年。サバイブから10周年企画のポッドキャストなどで発信していらっしゃるときに、病気のことを忘れないように、とおっしゃっていましたが、忘れるというのはどういう意味でしょうか。

栗栖:病気のこと、治療のこと、脚の障がいや体のこと。それらを忘れることは一生ないと思います。ただ、マインドとして、闘病中などに得た悟りの境地みたいなものや感覚って、社会復帰して、時間がたって、日々の仕事に追われていくと、薄れたり忘れたりするものなんですよ。メンタル面では、現実に落ちて、トラウマや自分の人生分をかけてきた癖や思考とかに引き戻されたりしてしまうんですよね。“忘れない”ようにはするのだけど、忙しい毎日に追われると、忘れてしまう。最近、右膝の人工関節が折れてしまって、手術と入院したことで、またあのときを思い出したり、内省して反省したりしましたけど。その繰り返しですね。

―忘れることはよくないことでしょうか。

栗栖:悪いことは忘れたほうがいいけれど、いいことというか、あのとき得た悟りや気づきは忘れないほうがよいのではないでしょうか。そちらのほうが繊細だし、負の遺産のほうが重いわけなんです。そういって行ったり来たりしながら、人は生きるのだとは思いますが。

―そういうことを繰り返しながら、人は生きていくのですね。

栗栖:私は、物ごころがついたころから、リーダー職を常にやっているんですね。学級委員長、キャプテン、生徒会長、組織のリーダー。長のつくことをずっとやっていて、トップだから好き勝手やっているように見えるかもしれませんが、本当に多くのことを考えなくてはならなくて、リーダーシップって、みんなに気を遣うことなんですよ。なるべくみんなに自由に、自分の好きや得意を発揮してほしいから、みんなに極力、公平に光があたって出番があるように注意をはらっています。私が目立ちたい、私がこう見られたい、人気者になりたい、というふうに考えたことはないです。みんなをどう魅せていくかしか考えていない。私は無で、みんながハッピーであれば本当に幸せ。長という立場というのは、私のために動いてください、っていうマインドでは務まらない。私はリーダーやディレクターとしてプロジェクトや組織のビジョンは描くけれど、あなたがやりたいこと、やってみたいことと合致するならば共にやりましょうというスタンスです。私の夢についてきて、助けて、従事してくださいとはまったく思っておらず、常にフラットなチームづくりと協働のあり方を追求しています。



自分らしく生きる人たちで世界を埋め尽くすために、真の多様性を問いながら社会を改革しようとする栗栖さんには、栗栖さんにしか見えない景色があるのだろう。ただ、そのビジョンや領域は、誰もみたことも行ったこともないがゆえの責苦がついてくる。それでも、そちらへワクワクしながら進むだけ、と言ったときの栗栖さんの笑顔は、ジャンルレスで究極にボーダーレスなものだった。

栗栖良依・アートプロデューサー
Kurisu1
東京造形大学でアートマネージメントを専攻。イタリアへ留学しビジネスデザイン修士号を取得。2010年、骨肉腫により障害福祉の世界と出会う。11年、SLOW LABELを創設。14~20年、ヨコハマ・パラトリエンナーレ総合ディレクターを務める。東京2020パラリンピック開閉会式では、ステージアドバイザーとして企画演出などを総合監修する。
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取材・文/八木橋恵

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